ー業界紙より抜粋ー

Ⅰ 初代音吉

●近江商人の家に生まれた初代音吉は、『兵庫人物列伝(明治43年刊)』によると、10歳のころから京都で和服の裁縫や洋装(軍服や制服)の縫製の勉強を始めたとあり、15歳の時、神戸の庄屋・柴屋金左衛門に家に婿養子となり、明治維新を迎え「これからは洋服の時代だ」と予見し、神戸の居留地16番館で明治2年(1869年)17歳の時、日本初の近代洋服(イギリス・ロンドンのサビルローを源流とする英国調スーツ)のテーラーをオープンしていたイギリス人カペル氏の一番弟子となる。明治元年(西暦1868年12月3日/和暦10月20日)、すでに元町(現在元町3丁目3番地)に工房をオープンし、日本人初のテーラーとして起業し、明治元年(西暦1868年7月12日)初代兵庫県知事に就任した伊藤博文公の洋服を仕立てたことは、今日も伝承されており、当時のフロックコート(礼服)が大事に保管されている。明治16年(1883年3月1日)、元町通山側(現在元町通3丁目9番地)に、業界初の合名会社、現在の㈱柴田音吉商店<柴田音吉洋服店>を創業する。続いて横浜に東京店をオープンする。商標である父の名の一字金の文字を分解した「人ニハ | ―」を「人には辛抱(芯棒)が一番」と読む。初代兵庫県知事から日本初の内閣総理大臣として歴史に残る伊藤博文公にご贔屓にされ、博文公の推薦で明治天皇陛下御用達の洋服商となる。『神戸はじめ物語』には「陛下のお身体には触れられないので、目測でサイズをお測りした」という有名なエピソードがあり、そこまで気配りしてのオーダー仕立てが見事、陛下にぴったりの洋服となり、感動した陛下に初代は博文公と共に「礼服には洋服の着用を定める」ように進言し、その後近代洋服が一気に普及する立役者となる。
また、初代音吉は春風社発行の「日本初の海外観光旅行」によると、サンフランシスコ万国博覧会に見学をかね、明治41年(1908年)3月から6月にかけて、日本初の96日間世界一周の船旅に出かけ、この旅行で羅紗の本場英国のロンドンで、毛織物商社「ドーメル社」と服地の輸入契約を結び、日本人として初めて生地の輸入を始める。

Ⅱ 二代目・友蔵

●初代音吉は、明治23年に柴田家に婿入りした友蔵(2代目)が、大正にかけて約30年間、神戸周辺および北海道に10数か所の木材製造所を有する北海林業㈱を開業し、特にマッチに関しては業界では例がないほど大成功したため(兵庫県人物列伝より引用)、長女・千代に大正2年、源頼朝の重臣で、鎌倉武士の模範と称えられた(NHKテレビより引用)、畠山重臣<現在も埼玉県嵐山町に石像が残る>の末裔である忠(3代目)を婿養子に迎え、後継者と決めた。
初代のバックアップもあって、友蔵(2代目)の林業とマッチのビジネスは柴田家に大きな財をもたらし、長男・享一には長岡の大倉財閥と縁組し、次女は鎌倉の銭高組の銭高家へ、三女は横浜正金銀行の日沖家へ、四女は同じく横浜の茂木財閥に嫁ぐなど、栄華を極めたが、第二次大戦の戦禍を被ることとなる。

Ⅲ 三代目・二代音吉

●忠は初代の没後(大正12年)、2代目音吉を襲名。当時として珍しい東京外国語学校(後の東京外大)フランス語学科出身で、毛織物の関係では政府派遣第1号としてフランスに留学。リヨンにて毛織物の勉強に励む。語学力に優れ、洗練された国際人で、内外に人脈を広げ、これも日本人としては最初に初代が晩年手がけていた服地の輸入、販売を本格化して、軌道に乗せる。特に、大正4年パリの毛織物商社「ドーメル社」との独占契約に成功し、これも日本人で初めてロンドンに仕入れ事務所を置き、全国に販路を広げた。このことは、後代への大きな遺産となる。また、初代を敬い、高野山の奥の院近くの表参道にある豊臣秀吉碑の正面近くに、初代音吉の碑を建立した。
趣味の面でも、神戸の日本人では初めて英国のスクーナー型ヨットをロンドンから輸入し、瀬戸内海のクルージングを楽しんだ。日仏親善に力を尽くし、その顕著な功績を讃えられ、フランス政府から勲章を贈られた。

Ⅳ 四代目・高明

●2代目音吉の長男である高明(4代目)は、父が昭和9年49歳の若さで他界したため、哲学に興味があり、大学教授になる夢をもっていたが、神戸大学在学中に家業を継ぎ、社長に就任。先代からの事業をさらに整備拡充、特に先の大戦後、元町3丁目の店舗は全焼し、回りすべて焼け野ケ原の中、奇跡的に類焼をまぬがれた店舗近くの社屋兼倉庫にて、再建・再興に力量を発揮。まず洋服店を昭和22年に開店し、さらにドーメル社もロンドンからスコットランドへ倉庫を移転しており、ロンドン空襲の被害を逃れていたため、戦争で中断されていた取引を再開した。昭和24年には、柴田商事㈱を設立し、ヨーロッパから輸入服地のみならず、戦後日本の繊維商社の中では先駆者としてプレタポルテ・洋品雑貨の輸入卸の業務を軌道に乗せる。英国の「アクァスキュータム(レインコート)」、ドイツの「ベロ(ネクタイ)」、「ビルツ(ハンカチ)」、スイスの「ハウザーマン(シャツ他)」等は、全国のデパート、ブティックで販売され、好評を得る。
昭和43年にはドーメル社(ロンドン・パリ)と業界初の合弁会社、柴田ブリティッシュテキスタイル㈱を発足させ、1980年代には数多いブランドの服地の中で、質・量ともに第1位の実績を維持するなど、画期的な成功を収めた。その当時、ドーメル社が世界最大の毛織物商社に成長したことは、4代目の大いなる貢献として大方のひとしく認めるところとなっている。その卓越した毛織物の知識とともに、特に財務関係にも強く、グループ会社7社(従業員150人、売上高80億円)の経営にいかんなく発揮した。
弟禎三は、営業面で兄に協力した。85歳になり引退し、92歳で亡くなるまで3代目音吉にアドバイスを続ける一方、より完成度の高い洋服づくりを目指して挑戦する心を忘れぬよう、スタッフを常に激励することを忘れなかった。

Ⅴ 五代目・三代音吉

●啓嗣(5代目)は甲南大学在学中、テニスのプレイヤーとして活躍し、卒業後はロンドンへ留学。語学力に磨きをかけ、サビルローのテーラー及び毛織物の研修と国際的なファッションセンスを養う。平成2年には3代目音吉を襲名すると同時に社長に就任。生来のファッション好きで、平成6年金門㈱を新設し、日本の服地卸商として初めてミラノにバイイング・オフィスをもうけ、紳士服地のプロデュース(デザイン・商品企画)に優れた才能を発揮。特に、輸入紳士服地を語らせれば右に出るものがいないと、内外の取引先から高い評価を得ている。
就任後、当グループを育てていただいた、世界の一流品をお好みになるお客様の「プレステージ・ファッションライフ」の提案をスローガンとするCI(コーポレート・アイデンティティ)を制定し、グループのコンセプトとして3つの1、つまり

を掲げる。
一方、90年代前半より低価格マーケットへの量販志向を強めるドーメル社と、販売方針の不一致が最大の理由により、平成9年、3世代82年に及ぶ取引関係の終了を決断するにいたった。他方、その間、70年代後半より25年にわたり毎年最低4回はイギリス、イタリアを中心にヨーロッパへ出向き、商品企画・仕入れ及び情報収集を行い、その長年の実績が認められ、英国王室エリザベス女王御用達の栄誉に輝くロンドンの「J&J ミニス」、チャールズ皇太子ご愛用の「ジョンGハーディ」の服地ブランドを通じ、世界最大のテキスタイルグループとして知られるイリングワース・モリス・グループの毛織物商社部門と全面的な提携に成功する。さらに、フランスの文化と謳われているパリの「ジバンシィ」、イタリアの3大ファッションブランドの1つといわれているミラノの「クリツィア」、同じイタリアの最高級品質ウールメーカー「アニオナ」や、ロンドン・サビルロウの新進気鋭デザイナー「リチャード・ジェームス」を日本市場に初めて紹介し、さらにミラノのスタイリストとして有名な「フランコ・フェラーロ」など、ヨーロッパの代表的な服地7ブランドの導入に成功。高級品マーケットである全国約1500店のデパート、テーラー、ブティック、アパレルメーカーから圧倒的な支持を得る。グループの扱う輸入服地「J&Jミニス」は平成天皇陛下のご愛用の栄に浴している。
当初順調な推移をたどっていた輸入服地部門の子会社は、90年代のバブルの崩壊と、それに加え、平成7年の阪神淡路大震災で、グループの神戸市内にあった先の大戦の戦火を免れた社屋兼倉庫が、またも奇跡的に倒壊を免れるが、営業拠点ビルが全壊し、その後遺症も大きく、また一流デパート・大型アパレルメーカーの倒産が相次ぎ、平成13年に整理するにいたった。同時に、大阪支社である第3ビルと東京支社である第7ビルを手放し、同時に帝国ホテルの店舗も撤退することとなる。
さらに元町4丁目にあった注文洋服部門の、グループ本社ビルである伝統格式漂う古風なレンガ造りの建物も倒壊したが、幸いテーラーの生命線である数千人(約2万人のうち)の顧客の型紙、伊藤博文公をはじめとする歴史的価値のある洋服や、スタッフ全員も再度奇跡的に難を逃れた。大震災を乗り越え、平成9年に7階建てのビルに建て替え、9社あったグループ会社も3社に縮小され、現在は親会社であった㈱柴田音吉洋服店に全精力を注入し、2階店舗も予約制にし、サロン風に模様替えされた。従来、外商が主力であったが、背広の発祥地である英国ロンドンのサビルロウのテーラーの本来の営業形態「ビスポーク」、つまりご来店いただき、お話しをしながら注文を頂戴するスタイルへ移行しつつある。お得意様は神戸近郊20%、東京から九州まで80%の割合で、全国に各界を代表する著名人の方々にご愛顧いただいている。誇らしいことは、2代目はもちろん、経済界では4代目社長、ドクターで3代目院長に、1世紀のわたりご贔屓にされている。
今も伝統の技術を大切に守り、5代目が平成7年にオーダーメイドで世界で最初に考案した最新ファッションのモデルを取り入れた「スタイル・オーダー」を前面に打ち出した、手作り仕立てのお誂え注文洋服は、お客様の間で〝芸術品の名にふさわしい〟と、お褒めいただいている。
当店の工場長である稲沢治徳は平成16年「神戸マイスター」、平成19年には「現代の名工」に選ばれ、平成20年には黄綬褒章を受章するなど、業界を代表する技術者に認定される。

●平成21年秋には、従来の当店の縫製よりも約400㌘軽い、史上最軽量「ライト-フィット」テーラード・ジャケットを発表。お客様より「こんなに軽くて着やすい替上衣は、今までに着たことがない。ニットのセーターを羽織っているようで、車を運転していても腕が動きやすく、また仕事をしていても肩がこらず、ストレスを感じない」と大好評で、更に喜ばしいことに、「LITE-FIT」は平成23年春に登録商標を済ませ、平成24年夏には特許庁より実用新案特許を受理するにいたる。

●明治元年(西暦1868年1月1日)神戸開港から数えて平成30年(2018年)には、神戸開港150周年を迎え、神戸市のホームページの「神戸なるほど歴史館」のCLOTHES(洋服)で、明治元年(1868年)に起業し、明治2年(1869年)にイギリス人カペルが経営するテーラーの一番弟子となった当店を日本人最初のテーラーとして紹介し、又、同じく明治元年(西暦1868年7月23日)兵庫県政がスタートして平成30年には、兵庫県政150周年を迎え、当店も明治元年10月20日(1968年12月3日)に起業し、本年150周年、さらに明治16年(1883年3月1日)に合名会社になって創業し、本年135周年という記念すべき年を迎え、神戸開港・兵庫県政150周年と幸運にも重なり、平成28年から30年にかけて、NHK、読売、関西、毎日、サン、BS/TBSの各TV局、日経、読売、朝日、毎日、産経、神戸の各新聞社、月刊誌「ミセス」「スカイマーク」等、計30社のメディアに取り上げられ、神戸から全国ベースで当店の健在ぶりと注文洋服への関心が深まった。中でも、平成30年(1968年)8月21日付の神戸新聞で、「兵庫県政150周年・兵庫を拓いた偉人創業者たち」の特集で、英国人から手ほどきを受けた初代音吉は「神戸洋服のパイオニアとしてまいた種が、枝分かれしながら大きく葉を茂らせている」として、光栄にも著名な創業者32名と共に紹介される。さらに、同年7月に3代音吉(5代目)は、経産省後援の「毎日ファッション大賞」に残念ながら受賞にはいたらなかったが、テーラーとして初めてノミネートされる。ノミネート理由は、「150年間変わらない機動性のあるゆとりと、美しいシルエットを両立させた背広作り」にある。

●起業150周年・創業135年の記念事業として、若手技術者の育成と「ライト-フィット」テーラード・ジャケットのアパレルメーカーとのコラボレーションも計画している。さらに当店が世界に先がけてスタートした「スタイル・オーダー」は、「STYLE-ORDER ORIGINAL 1995」として、平成30年夏に登録商標され、さらなる事業展開が期待されている。

●柴田の洋服は、常に各界のトップリーダーに愛され、世界で活躍してきた。明治財界の風雲児・藤田伝三郎男爵、大倉財閥の総帥・大倉喜八郎男爵、川崎製鉄の松方幸次郎氏、鈴木商店の金子直吉氏、麻生財閥の麻生太喜蔵氏、カリスマ経営者・松下幸之助氏、塩野義製薬・塩野孝太郎氏、東洋紡績・宇野収氏、ヤンマーディーゼル・山岡淳男氏、帝人・徳末省三氏、森下仁丹・森下泰氏、神戸銀行・石野信一氏、神戸製鋼・外島健吉氏、京都大学名誉教授の福井謙一氏、華道小原流家元の小原豊雲氏、吉兆創業者・湯木貞一氏等々、有名顧客をあげれば枚挙にいとまがない。(順不同)

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